展示室

Exhibition

第1展示室 藩校と寺子屋

 山形県内の藩校には米沢の興譲館、上山の明新館、山形の経誼館、天童の養正館、新庄の明倫堂、庄内の致道館、松山の里仁館がありました。
 郷学校の数は少ないのですが幕末から維新期には数校あり、寺子屋と私塾は幕末になるにつれて普及しました。
 寺子屋風景のジオラマなどを展示しています 。

写真:寺子屋風景のジオラマ

第2展示室 学校のはじまり

展示物:学校生徒体操の図 

 1872(明治5)年の学制発布の年、山形・酒田両県に小学校はほとんどなく、置賜県に11校あるだけでした。
 教科書は欧米教科書の直訳もの、往来物、漢籍など雑多でした。出版数は少なく、掛図を使った一斉授業をしなければなりませんでした。
 明治初期小学校の建築模型などを展示しています。

第3展示室 明治から大正へ

山形県では山形県師範学校を最初に、女子師範学校や中学校・高等女学校・実業学校などが開設され、1920(大正9)年に山形高等学校も誕生しました。
 この時代は初等教育も充実し、本県では明治40年代に就学率が90%を超え、1916(大正5)年には従来の40位台から数年で全国第3位(出席率10位)となりました。
 大正時代の児童生徒の服装や明治・大正期の教科書などを展示しています。

写真:山形唱歌・授業教案・家庭通信簿

第4展示室 昭和初期の教育

写真:石盤と文具

 昭和初期の教育界には、大正時代の「自由教育」を受けついで、自主性を尊重する児童中心主義の教育が行われていました。
 しかし、戦争が始まり、自由主義の考えはのぞかれ、教育面にも統制の強化がはかられ、戦時体制に突入しました。
 山形県では、壮丁学力検査(成年男子が兵役のために受ける検査)で全国1位の成績をとり、公表された数年間この成績を確保しました。
 小学校の授業風景のジオラマや肢体不自由児訓練用足踏機などを展示しています。

第5展示室 戦時下の教育

 小学校の名が消え、国民学校に変わりました。教科書は軍部の圧力のもとでつくられました。
 中等以上の学校は「学徒勤労令」「学徒動員令」などで、教室での授業はほとんどなくなりました。
 戦況が悪くなると学童疎開、勤労動員、学徒出陣が始まり、また決戦教育措置によって、初等科以上の授業は1年間停止となり、教育の正常な活動はできなくなりました。
 VTR「戦う少国民」や戦時下の子どもたちの服装などを展示しています。

写真:戦時下の子どもたちの服装

第6展示室 新しい教育

 1947(昭和22)年に、日本国憲法のもとに教育基本法と学校教育法が公布され、六・三・三・四制、教育委員会制、学習指導要領、PTA活動など、新しい時代の新しい教育が始まりました。
 山形でも県をはじめ各市町村に教育委員会ができ、校舎の建築や設備の充実など、教育条件の整備にあたりました。
 墨塗り教科書などを展示しています。

写真:戦後の教科書 

第7展示室 教員養成のあゆみ

写真:山形県師範学校酬志会会誌

 学制発布後、1878(明治11)年、教員養成のために、山形県師範学校を設置しました。1901(明治34)年、現在の教育資料館の地に校舎を新築移転しました。1889(明治22)年に併置された女子部は、廃止・再興を経て、1902(明治35)年に校舎を新築し、山形県女子師範学校として独立しました。
 戦後の学制改革で、その後設立した青年師範学校とともに3校が合併し、山形大学教育学部となりました。山形県師範学校および女子師範学校・青年師範学校等関係資料を中心に展示しています。

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