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『白鳥になった人形』のお話

 今はちょうど夏休みということもあり、山形県立博物館分館の教育資料館(旧山形師範学校)でも、親子連れや家族連れのお客様が見られるようになりました。毎年夏休みになると、8月の原爆の日や終戦記念日に合わせて、テレビやラジオ、新聞で戦争に関した報道にふれる機会が多くなります。太平洋戦争が終結して今年で79年を迎えますが、教育資料館の展示室「戦時下の教育」の資料にじっくり見入るお客様の姿が、特に8月は多く見受けられます。

 山形師範学校出身の著名人では特に藤沢周平が知られており、教育資料館の展示室にも藤沢周平コーナーを設けていますが、皆さんは須藤克三を知っていますか?南陽市宮内生まれの教育者・児童文学者で、彼の作品の一つに『白鳥になった人形』という絵本があります。これは戦前に日米友好の証として日本中の小学校や幼稚園に贈られた、通称“青い目の人形”にまつわる実話を基にしたお話です。(山形県内には“青い目の人形”が160体もやってきたのですが、現存が確認されているのは12体です。)お話の簡単なあらすじは以下のようになります。

 ある“青い目の人形”が、山形県内の村山市にあった大倉小学校にあり、可愛がられ大切にされていました。その人形の世話をしていたのは女性の先生でした。やがて戦争が激しくなってくると、すべてアメリカのものは敵視され、とうとう人形を焼くように校長先生に厳命されました。しかし、先生は「罪もない」人形をどうしても焼くことはできません。やむなく、泣く泣く小学校の近くにあった、大倉堤に人形を沈めることになりました。「平和になったら白鳥になって戻っておいで」と声をかけました。やがて戦争が終わり、先生は早く白鳥がやってくるよう祈り続けました。それから何十年もの月日がながれ、白鳥がようやく大倉堤にたくさん飛んできたという話です。

 『白鳥になった人形』は実際にあったお話です。私自身も小学生の時にこの本を読み、子どもながらに、大きな空襲を受けていない田舎の村でも、戦争が人々の身近にあったのだと気づかされました。戦争のない日本で暮らせることがいかにありがたいことかとしみじみ感じました。

 悲しいことに世界ではいまだに戦争が終わらない国や地域があります。先日、大倉堤を訪れました。“青い目の人形”と人形を沈めた先生のことを思いながら、水面を見つめました。皆さん、この8月に改めて、戦争とは何かを身近な家族や友人などと一緒に考えてみませんか。

大倉堤
戦時下の教育 展示室 ジオラマ
戦時中の教科書

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