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館長オススメ展示資料「環頭大刀」

 山形県立博物館における考古部門の展示物と言えば、誰しもが国宝の土偶「縄文の女神」を思い浮かべると思います。世界的な知名度もあり、現在開催中のプライム企画『女神たちの饗宴 ―「縄文の女神」国宝指定10周年―』は、とても好評をいただいております。
 その一方で、考古部門の他の展示資料は、どうしても二番手になりがちです。しかし、ほかにも、山形県の宝がたくさん収蔵・展示されています。そのうち、館長お薦めとして、山形市の大之越(だいのこし)古墳から出土した「環頭(かんとう)大刀」をご紹介します。

 5世紀後半~末の築造と考えられる大之越古墳は、直径約15mの円墳で、山形盆地の南西部に位置する山形市門伝地区にあり、古墳の西方約500m先には、ピラミッドのような富神山がそそり立っています。富神山は石が豊富で、大之越古墳や東北地方最大級の埴輪をもつ円墳の菅沢2号古墳(大之越古墳より東南東へ約1,200m)などに使用されています。
 昭和53年(1978年)、道路工事中に石棺が露出し、そこから40点余りの鉄製品を含む豊富な副葬品が出土したことは驚きをもって伝えられました。その中で最も注目された副葬品が環頭大刀です。全長約95cmで、刀部は約73 cm、茎部は約22 cmで、グリップエンドに環状の装飾が付いています。環頭には鳳凰が表され、口ばしには金象嵌(象嵌:素材の表面に、他もしくは同種の材料を嵌(は)め込む技術)が施されています。このような貴金属で装飾を施した「装飾付大刀」は、多種多様なものが日本列島に流通しており、大之越古墳の環頭大刀は、製作技法と装飾の特徴から、朝鮮半島南部の百済もしくは伽耶での製作と考えられるそうです。(なお、日本列島で装飾付大刀の製作が本格化するのは6世紀後半とされており、562年の大伽耶の滅亡により工人集団が渡来したのが一因との説があります。)そして、環頭大刀は日本列島に舶載され、当時の中央政権(ヤマト政権)から大之越古墳に葬られることになる人物に与えられたのではないかと思われています。
 『大之越古墳発掘調査報告書』(山形県教育委員会/1979年)では、ヤマト政権においても第一級の宝器とみなすことができる環頭大刀のほか多数の副葬品があったことから、大之越古墳に葬られた人物とヤマト政権は、単なる文化の交流を越えた関係であり、ヤマト政権がかなり影響力をもって環頭大刀や刀剣などを賜与したという政治的な結合であったと推測しています。
 古墳時代において、日本海側の古墳の北限は山形県に当たり、だいたい庄内地方から山形盆地を結ぶラインとされています。これをヤマト政権の強い影響力が及ぶ北限と考えると、大之越古墳に葬られた人物は、東北地方への進出をもくろむヤマト政権と密接に結びつき、最前線に立って重要な役割を担っていた山形盆地の首長とは考えられないでしょうか。大之越古墳の環頭大刀は、当時のヤマト政権と山形をグルーバルかつダイナミックに結び付けてくれます。この環頭大刀と並んで、全長約84 cmの鉄剣、全長約82 cmの鉄刀、鉄鏃(やじり)16本なども展示しています。時を超えて当時の山形の姿に思いをめぐらせていただければと思います。

 プライム企画『女神たちの饗宴 ―「縄文の女神」国宝指定10周年―』の開期は、残り1か月を切りました。皆さまのご来館をおまちしております。そして、常設展示にも改めてご注目ください。

※ 大之越古墳の環頭大刀の図版については、下記アドレスからご覧ください。
   https://www.yamagata-museum.jp/treasures/dainokoshi-kofun

※ 大之越古墳の様子。2番目の写真の中央が富神山です。

<参考>
・『大之越古墳発掘調査報告書』(山形県教育委員会/1979年)
・橋本英将「大之越古墳出土の環頭大刀について」(山形県立博物館『出羽国成立以前の山形』2011年)
・金宇大「刀剣から読む古代朝鮮と倭」(古代歴史文化協議会『第4回古代歴史文化講演会 資料集』2019年)

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