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年代 ねんだい
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江戸時代後期 (享和元年4月) えどじだいこうき (きょうほうがんねん4がつ)
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種類 しゅるい
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古文書 こもんじょ
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大きさ おおきさ
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縦30.0×横36.6cm
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材質 ざいしつ
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紙(和紙) かみ(わし)
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差出人/受取人 さしだしにん/うけとりにん
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彦次郎/稲葉八兵衛 ひこじろう/いなばはちべえ
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● 説明 ●
江戸時代に書かれた、お金を借りる時の証明書です。門前村の彦次郎という人が、親せきの亀吉を保証人(お金が返せない時に代わりに払う人)として、同じ村の庄屋(現在の村長)・稲葉八兵衛からお金を借りるときに出したものです。次のようなことが書かれています。 「私(彦次郎)は年貢がおさめられないので、あなた(稲葉八兵衛)から借りた金3分(※)で年貢をおさめます。借りたお金は期限までに必ず返します。もし返せない場合は、亀吉があなたのもとへ参ります。」 江戸時代の人々は、税を米や金銭でおさめていました。しかし作物がとれなかったりお金がなかったりすると、庄屋や裕福な人から借りて税をおさめることがありました。 金額や名前の下に黒い色のハンコ(黒印)が押してあります。現在のハンコは赤い色ですが、江戸時代に赤い色を使うのは身分の高い人に限られていました。その他の人々は、黒い色のものを使っていました。 ※『分』は江戸時代の金貨の単位です。金貨の単位には両・分・朱がありました。 1両=4分=16朱となります。
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湯殿山道中一覧 七日町大手前 (ゆどのさんどうちゅういちらん なのかまちおおてまえ)
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年代 ねんだい
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江戸時代 えどじだい
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種類 しゅるい
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絵図 えず
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大きさ おおきさ
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縦13.4×横17.6cm
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材質 ざいしつ
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紙(和紙) かみ(わし)
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製作者 せいさくしゃ
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義川 よしかわ
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● 説明 ●
江戸時代の山形の様子を描いた版画です。「湯殿山道中一覧」という、全部で約30枚あると言われている版画の一つで、湯殿山へ向かうまでの名所などが描かれています。この絵は七日町(山形市七日町)を描いた部分で、大通りに商店や蔵がならんでいます。 七日町は、山形の城下町の中で最もにぎやかな場所のひとつでした。大通りには、菓子・薬・呉服(絹織物)・小間物(雑貨)屋などさまざまな店がならんでいました。6月ごろには山形の特産物である紅花の市も開かれ、各地からおおぜいの人々がやって来たそうです。 奥に見えるのは山形城三の丸の大手門です。山形城は本丸・二の丸・三の丸と分かれており、現在の山形市内の中心部を占めていました。三の丸は城のいちばん外側の部分になります。周囲は土塁で囲まれ、全部で11の門がありました。三の丸の中には武士の屋敷があり、門の近くには身分の高い武士が配置されました。 大量の荷物を車に乗せて運ぶ人、「高田」と書かれた店から出てくる人、笠(かさ)とつえを持った旅人らしき人、女性の手を引く子どもなど、当時の人々の様子も描かれています。 この絵は出羽三山(羽黒山・月山・湯殿山など)へお参りに来た人への、おみやげとして売り出されたものです。風景をありのままに描いていて、江戸時代の山形の様子をよく伝えています。
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年代 ねんだい
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江戸時代後期 (弘化3年9月) えどじだいこうき (こうか3ねん9がつ)
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種類 しゅるい
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その他 そのた
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大きさ おおきさ
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縦13.4×横10.3 ×厚さ1.7cm
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材質 ざいしつ
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木 き
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差出人/受取人 さしだしにん/うけとりにん
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役所/仁兵衛 じんべえ
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● 説明 ●
江戸時代に、商人が持っていた木の札です。江戸時代の商人は、役所に一定のお金をおさめ、このような鑑札をあたえられ商売を許可されました。 これは紅花をあつかう商人が持っていたもので、役所から材木町(山形市)の仁兵衛という人物にあたえられたものです。右側に許可された年、左側に月・住所・氏名が書かれています。真ん中には「役所」という文字と、焼印(火で熱した金属のハンコ)が押してあります。反対面には「紅花」「鑑札」などと書かれています。 紅花は中央アジアかエジプトが原産地といわれるキク科の植物で、7月初めに黄色い花を咲かせます。花を加工すると紅い色素が出て、着物を染める材料や口紅の原料として使われました。山形では紅花が多く栽培され、多いときで全国の生産量の約半分を占めていました。紅花は干した状態で袋詰めにされ、船や馬で京都・大坂・江戸などに運ばれました。山形には紅花を扱う商人が数多く存在し、中には大商人に成長して、藩の政治にかかわる人々もいました。 明治時代になると、海外からの輸入や化学染料などが増え、しだいに紅花は使われなくなっていきました。しかし現在では山形県の花に指定され、食品の原料に使われるなど、さまざまな取り組みが試されています。
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年代 ねんだい
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明治14年6月3日 めいじ14ねん6がつ3っか
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種類 しゅるい
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絵図 えず
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大きさ おおきさ
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縦36×横68cm
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材質 ざいしつ
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紙 かみ
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製作者 せいさくしゃ
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長谷川竹葉 はせがわちくよう
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● 説明 ●
明治時代初めの山形市の様子を描いた版画です。明治時代になると、各地に洋風の建物がつくられるようになりました。山形市も県令(現在の県知事)・三島通庸を中心として、洋風の町並みづくりが進められました。 中心街の七日町には、県庁・師範学校(教師になるための学校)・警察署・博物館・製糸所(糸をつくる工場)・郡役所などが並んでいます。和風と洋風をおりまぜた建物が多く、時計台がついているものもありました。 県庁の東側には千歳園という大きな公園があり、庭や噴水がありました。また農場もあり、果物や野菜の栽培が行われていました。現在は図書館(遊学館)になっています。 絵の下の部分には病院(済生館)の塔が見えます。塔には輸入された色ガラスがはめられていて、めずらしさから大勢の見物人が来たそうです。ここでは外国から来た医師が働いていた時期もありました。現在は山形市郷土館(山形県立博物館の隣)となっています。 道路を見てみると、馬車や人力車が走っています。また洋服を着ている人や、日傘をさしている人がいます。明治時代になると、建物だけではなく、人々の日常生活の中にもだんだんと洋風の服装や道具が広まっていきました。
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山形歩兵第三十二連隊景(やまがたほへいだいさんじゅうにれんたいけい)
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年代 ねんだい
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明治38年10月15日 めいじ38ねん10がつ15にち
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種類 しゅるい
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絵図 えず
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大きさ おおきさ
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縦39.0×横55.0cm
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材質 ざいしつ
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紙 かみ
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製作者 せいさくしゃ
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戸沢鈬三郎 とざわたくさぶろう
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● 説明 ●
山形城から戦地に向かう軍隊の様子を描いた版画です。明治時代後半に、山形城は軍隊の駐屯地となりました。「歩兵第32連隊」といい、約2,000人の兵士が所属していました。大勢の兵士が、銃を持って規則正しく行進しています。先頭の兵士はラッパを吹き、馬に乗ってサーベルを手にしている兵士もいます。中央の兵士は日の丸をかかげています。 石垣に囲まれた城の中には、兵士の宿舎などいろいろな建物が見えます。現在は石垣にたくさんの植物が生い茂っていますが、この当時はほとんどありませんでした。また江戸時代の建物や門は、明治時代の初めに取りはらわれ、本丸(城の中心部)は埋められました。 この絵が描かれる前年に、日本はロシアと戦争を始めました(日露戦争)。歩兵第32連隊も出征して戦い、明治39年3月に山形に帰って来ました。しかし生きて帰って来られたのは、出征した兵士の半数ほどでした。現在石垣の上に生えている桜の木は、このとき帰って来た兵士たちによって植えられたものです。 大正・昭和時代になり、太平洋戦争が終わると、軍隊は解散しました。その後の山形城は、中学校の校舎や戦争から帰ってきた人々の宿舎など、さまざまなことに使用されました。現在では「霞城公園」として整備され、城あとの発掘や復元作業が進められています。
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