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ペリアン指導(しどう)の「折りたたみ寝椅子(ねいす)」
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時代 じだい
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昭和15年頃 しょうわ15ねんごろ
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市町村 しちょうそん
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新庄市 しんじょうし
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材質 ざいしつ
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木材・ワラ もくざい・わら
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大きさ おおきさ
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長さ75.5cm・幅46cm・高さ61cm
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● 説明 ●
シャルロット・ペリアンはフランスの建築家(けんちくか)・デザイナーです。1940年(昭和15年)に建築家(けんちくか)坂倉準三(さかくらじゅんぞう)の誘(さそ)いで、商工省(しょうこうしょう)(現経済産業省)貿易局が行う輸出(ゆしゅつ)工芸(こうげい)指導(しどう)のため来日しました。 ペリアンはデザイナー柳宗理(やなぎそうり)らとともに日本各地を視察(しさつ)し、民芸品を見るために11月新庄町(現新庄市)に来ました。積雪地方農村経済調査所(せきせつちほうのうそんけいざいちょうさじょ)※の山口所長は「農民の冬の副業として、農閑期(のうかんき)にどうすればよいか、何か方策(ほうさく)を与えてほしい」とお願いしました。そこでペリアンは、民芸品に時代性・利便性(りべんせい)的内容を加えて、調度品(インテリア)に応用しようと考えました。ミノを上手に作る農民に、寝椅子(ねいす)の骨格の寸法(すんぽう)だけを伝え、あとは農民の自由に任(まか)せました。民芸品を作る人々には、指導するためにいろいろの製造条件を示したり、型を示したりするよりも、単に用途(ようと)だけを伝えて創作させたほうが良いものができると考えたからです。当時の日本は、ヨーロッパスタイルの生活ではなくて、農民に寝椅子(ねいす)をわからせるのが難しかったといいます。ミノのデザインを寝椅子(ねいす)に置き換(か)えるという発想は、農民の創造(そうぞう)したものです。 ※雪国の特長を科学的に調査し、雪国の人々が豊かに自立できるように研究・指導した機関(きかん)。
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時代 じだい
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昭和30年代頃まで しょうわ30ねんだいごろまで
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市町村 しちょうそん
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山形市 やまがたし
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材質 ざいしつ
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ワラ・樹木皮 わら・じゅもくかわ
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大きさ おおきさ
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長さ124cm・幅37cm
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指定 してい
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県有形民俗文化財 けんゆうけいみんぞくぶんかざい
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● 説明 ●
「荷背負い蓑(みの)」の方言化した名称(めいしょう)であるといわれます。山形市周辺市町村の農民が作った蓑(みの)の一種で、さまざまな模様を入れて美しく編まれた蓑(みの)です。主に稲や農作物などを背負うときに使用された背中あての蓑で、藁(わら)の芯(しん)やウリハダカエデの樹木皮を主材料に、赤や藍に染めた木綿糸を編み込んで作られています。藁(わら)のもつあたたかさと保温力、木の皮のもつなめらかさと丈夫さを備(そな)えています。 ニセミノの表側の模様として、背中の部分に七つ程の宝珠(ほうじゅ)(三日月)模様が編み込まれ、それが背中のクッションとして、また荷がずれ落ちないような役割をもっています。宝珠(ほうじゅ)はあらゆる願いをかなえる仏教的な要素もこめられているようです。腰当ての部分は長寿(ちょうじゅ)祝いの松・家紋(かもん)などの模様が編まれています。 1枚のニセミノを作るのに、10日間程の日数をついやしたといいます。若者が婚約した女性に贈り、妻になった女性はそのニセミノを着て、夫の仕事を手伝ったそうです。機能美とデザインとしての造形美(ぞうけいび)の良さが表れており、すぐれた民芸品としても評価(ひょうか)されています。農民の心の豊かさがこのようなすぐれた作品を作り上げたのでしょう。 山形市二井田の尚古館(明圓寺)に十点が所蔵されています。二位田は昔から藁(わら)工品の産地として知られており、特にニセミノ製作(せいさく)にすぐれていたといいます。
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三島通庸(みしまみちつね)「辞世(じせい)の句(く)」
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時代 じだい
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江戸時代(文久年間・幕末) えどじだい(ぶんきゅうねんかん・ばくまつ)
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市町村 しちょうそん
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材質・技法 ざいしつ・ぎほう
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絹本墨書
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大きさ おおきさ
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長さ130cm・幅32.5cm
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形式 けいしき
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軸装 じくそう
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● 説明 ●
三島通庸(みしまみちつね)は、薩摩藩(さつまはん)(現鹿児島県)出身で、幕末(ばくまつ)に討幕(とうばく)運動に参加し、鳥羽伏見(とばふしみ)の戦いでは小荷駄隊(こにだたい)を率いて活躍(かつやく)しました。戊辰(ぼしん)戦争後、藩政改革(はんせいかいかく)に参加して不平士族(ふへいしぞく)などを治(おさ)める功績(こうせき)を残し、同郷(どうきょう)である大久保利通の計(はか)らいで新政府に出仕(しゅっし)しました。東京府職員や教部省を皮切りに、酒田・山形・福島・栃木県令、内務省(ないむしょう)土木局長、警視総監(けいしそうかん)を歴任(れきにん)しました。 初代山形県令として、山形での功績(こうせき)は数多く、強引に土木工事を進める手法(しゅほう)から「土木県令」・「鬼県令」などと呼ばれましたが、開拓者の意気込みで名実(めいじつ)ともに山形県の土台を築きました。主なものは、道路整備、県都造営(けんとぞうえい)、殖産興業(しょくさんこうぎょう)、教育振興(しんこう)などがあげられます。 この作品は、文久年間(ぶんきゅうねんかん)倒幕急進組(とうばくきゅうしんぐみ)に参加した三島通庸(みしまみちつね)が死を覚悟して、いつも陣羽織(じんばおり)に張り付けていたものの写しといいます。1862(文久2)年4月23日に起きた新撰組の伏見(ふしみ)寺田屋討(う)ち入り事件に巻き込まれましたが、幸い三島は2階に立てこもっていたため、1階で起きた新撰組襲撃(しゅうげき)からのがれ、そのあとで写しをとったと伝えられています。 《皇国(すめぐに)の御代安けれと 武士(もののふ)のあかき心をつくす今はかな》
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相良人形(さがらにんぎょう)[花篭持(はなかごも)ち]
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時代 じだい
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市町村 しちょうそん
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米沢市 よねざわし
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種類 しゅるい
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土人形 つちにんぎょう
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大きさ おおきさ
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高さ16.9cm・底幅12.7cm
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コレクション これくしょん
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梅津宮雄コレクション うめづみやお
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● 説明 ●
日本の土(つち)人形の起源(きげん)は、伏見(ふしみ)人形(京都府)といわれています。日本各地の土(つち)人形は、少なからず伏見人形の流れを汲(く)んでいるようです。 相良(さがら)人形は、宮城県の堤(つつみ)人形、岩手県の花巻(はなまき)人形と並んで東北三大土(つち)人形と称(しょう)されている全国有数(ゆうすう)の土(つち)人形です。初代人形師は、米沢(よねざわ)藩士(はんし)相良清左衛門厚忠(1760~1835)という人物で、上杉治憲(鷹山)が財政(ざいせい)建て直しのため製陶所(せいとうじょ)を設(もう)けてつくらせ(成島焼(なるしまやき))、厚忠が陶業(とうぎょう)の副産物として(自分の趣味として)土(つち)人形製作をはじめたのが起源です。京に行った際、伏見人形に感銘(かんめい)を受け、木彫りの人形型を作りこれをもとに独自の人形を完成させました。作品は「伏見7分、堤3分」といわれるように伏見人形だけでなく、堤人形の影響(えいきょう)も受けています。 戦中、一時廃絶(はいぜつ)しましたが、1967(昭和42)年に七代目として相良隆さんが人形を再興(さいこう)し、現在まで米沢市相良家において継承(けいしょう)されています。小型で可憐(かれん)な人形が多く、目もとの可愛らしさ、彩色(さいしょく)の豊かさ、姿態(したい)のバランスの良さなどが特徴(とくちょう)です。 山形県内における土(つち)人形は、相良人形がもっとも古く、大正時代頃までは、県内20か所位で作られていたようです。
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時代 じだい
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市町村 しちょうそん
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鶴岡市 つるおかし
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材質 ざいしつ
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陶器 とうき
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大きさ おおきさ
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高さ21cm・口径26cm
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種別 しゅべつ
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湯通し ゆどおし
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● 説明 ●
庄内地方には焼物窯(やきものかま)が非常に少なくて、大宝寺焼(だいほうじやき)が唯一(ゆいいつ)の存在(そんざい)でないかといわれています。陶窯(とうよう)が発達しなかった理由はさまざまあるようですが、その大きな理由の一つとして、江戸時代に開始された日本海の舟運によって、中央のよりすぐれた安価(あんか)な陶磁器(とうじき)が大量に移入(いにゅう)されていたためと考えられるようです。 大宝寺焼は、江戸時代末ごろから明治にかけて鶴岡でつくられた陶器(とうき)です。1825年[文政(ぶんせい)8年]の焼き物に関する文書が窯元(かまもと)だった家に残っており、このころに創始(そうし)されたものと思われています(鶴岡市新町・五十嵐家、屋号太平)。窯場(かまば)は、鶴岡の大宝寺町と新町の2か所にあり、新町焼とも呼ばれていました。近郊(きんこう)からとった粘土(ねんど)を使い、厚手(あつで)で重いつくりのものが多いです。徳利(とっくり)、甕類(かめるい)などの日常雑器(ざっき)がおおく、寒地独特の器種(きしゅ)もありました。しかし、次第(しだい)に需要(じゅよう)がすくなくなり、明治20年代に廃窯(はいよう)してしまいました。 湯通しは、冷たいご飯をいれ、熱湯をかけて温めるための甕形(おうけい)の器です。お湯は底にある孔(あな)から流れ出ます。孔は、小型の器で十数個、大型の器で三十数個あります。本資料の湯通しには30個あります。さらにお湯を切ってから、それをとろ火にかけて蒸(む)すと、炊(た)きたてのご飯のようになる一種の蒸し器のようなものです。寒冷地における生活の知恵といえるでしょう。昭和の初めくらいまで使用していました。ふかし釜(かま)が普及(ふきゅう)すると使われなくなっていきます。
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