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考古(こうこ)
  石核(せきかく)
写真:石核  時代/世紀
 じだい/せいき
 中期旧石器時代
 /約40000年前
 ちゅうききゅうせっきじだい
 /やく40000ねんまえ
 市町村(遺跡)名
 しちょうそん(いせき)めい
 飯豊町(上屋地B遺跡)
 いいでまち(かみやちびーいせき)
 種類
 しゅるい
 石器
 せっき
 大きさ
 おおきさ
 長さ10cm・幅10cm
   
 ● 説明 ●
 いまから約4万年前の、中期旧石器時代(ちゅうききゅうせっきじだい)には、ナウマンゾウやオオツノジカなど今では絶滅(ぜつめつ)してしまった動物たちのほか、アナグマやタヌキ、ノウサギ、イノシシなどおなじみの動物たちも住んでいました。旧石器人たちはこれらの動物たちを狩(か)ってくらしていました。彼らが使っていたものとして石器があります。旧石器時代の代表的な道具である石器には、河原石(かわらいし)などを次々と薄く石の表面を打ち、芯(しん)の部分を道具として使う石核石器(せっかくせっき)と、同様な大きめの石を打ち、薄くはがした方を使う、剥片石器(はくへんせっき)があります。
 この石器は、石核石器の方になり、現在、県内でもっとも古い石器になります。この石器は、山形県南部の飯豊町(いいでまち)、上屋地(かみやち)B遺跡からみつかりました。この遺跡の発掘調査(はっくつちょうさ)は、1968年から3年間行われ、粘土質(ねんどしつ)の層(第2層)とその下の礫層(れきそう)(第3層)から石器が出土しています。この石器をみると、亀(かめ)の甲羅(こうら)のように真ん中が盛り上がり、石片をはがしたあとがめぐっています。他の握斧(あくふ)や両刃石器(りょうばせっき)などとともに、中国の山西(さんせい)省の丁村(ていそん)文化やシベリアのルバロワ=ムスティエ文化期の石器とよくにています。
 
  隆起線文土器(りゅうきせんもんどき)
写真:隆起線文土器  時代/世紀
 じだい/せいき
 縄文時代草創期
 /約12000年前
 じょうもんじだいそうそうき
 /やく12000ねんまえ
 市町村(遺跡)名
 しちょうそん(いせき)めい
 高畠町(大立遺跡)
 たかはたまち(おおだちいせき)
 種類
 しゅるい
 土器
 どき
 大きさ
 おおきさ
 幅5cm
   
 ● 説明 ●
 約12000年前、氷河期(ひょうがき)が終わって気候(きこう)がゆるむと、ナウマンゾウのような大型の動物は姿(すがた)を消し、このころ住んでいた人々は食糧(しょくりょう)として森の木の実に注目しはじめました。その時代から土器が使われはじめ、いわゆる「縄文時代(じょうもんじだい)」がはじまりました。特にはじまりの時期を草創期(そうそうき)といいます。土器は、このような環境のなかで木の実などの食糧の煮炊(にた)き用としてつくりだされたものと考えられています。この隆起線文土器(りゅうきせんもんどき)は日本最古の土器のひとつで、底の丸いボウルのような形が特徴(とくちょう)です。その形の由来として、一説には動物の皮を利用した容器(ようき)をまねたと言われています。それにしたがえば、口の部分下の三角形の断面(だんめん)の出っ張り(隆起線文)は、革袋(かわぶくろ)の口につけられた糸(いと)のように思えます。
 この時代、人々の生活で使われていた土器の量(りょう)は、それほど多くないようで、遺跡から発見される土器の少なさからも読(よ)み取(と)れます。この土器は、山形県南部の高畠(たかはた)町、大立洞穴(おおだちどうけつ)遺跡からみつかりました。この遺跡の発掘調査(はっくつちょうさ)は、山形県立博物館により1975年から3年間にわたり行われました。周辺には、日向(ひなた)洞穴遺跡や火箱岩(ひばこいわ)洞穴遺跡など縄文時代草創期の有名な遺跡が多数(たすう)あります。これらの遺跡は、縄文時代のはじまりの時期に県内にも縄文人が住んでいた大切な証(あかし)となります。
 
  土偶(どぐう)[縄文(じょうもん)の女神]
写真:西ノ前土偶(縄文ヴィーナス)  時代/世紀
 じだい/せいき
 縄文時代中期
 /約4500年前
 じょうもんじだいちゅうき
 /やく4500ねんまえ
 市町村(遺跡)名
 しちょうそん(いせき)めい
 舟形町(西ノ前遺跡)
 ふながたまち(にしのまえいせき)
 種類
 しゅるい
 土製品
 どせいひん
 大きさ
 おおきさ
 高さ45cm・肩幅17cm
 指定
 してい
 国宝
 こくほう
 ● 説明 ●
 この「人形(ひとがた)」の土偶(どぐう)は妊婦(にんぷ)や豊満(ほうまん)な女性像が大半であることから、豊かな生活をねがう女神像(めがみぞう)と考えられています。また故意(こい)にこわされた状態でみつかることが多いため、祭りの主人公(しゅじんこう)としての役割をおっていたと推測(すいそく)されます。
 この土偶は、山形県の北部、舟形町(ふながたまち)西ノ前(にしのまえ)遺跡からみつかりました。この遺跡からは多数の土偶が発見(はっけん)され、48点すべてが国宝(こくほう)に指定されています。いずれの土偶の顔にも目・鼻(はな)・口の表現がありません。この土偶は、高さ45cmもある、日本最大級(さいだいきゅう)の土偶です。3m四方(しほう)に5つに割れた状態でみつかりました。すらりと伸びた形は現代アートを思わせます。頭部は円盤(えんばん)をたてたような形で、そこに8つの孔(あな)があけられています。両肩から胸(むね)のラインはシャープで、細くしまった腰(こし)とお尻の張(は)り出(だ)し(出尻(でっじり))はバランスが良く、足元で広がる足へとつながります。その造形美(ぞうけいび)から、「縄文の女神(じょうもんのめがみ)」の愛称(あいしょう)で呼ばれています。
 最近では、海外(かいがい)で展示されることが多く、1998年フランスのパリ市で開かれた「縄文」展では、当時のシラク大統領(だいとうりょう)からも 称賛(しょうさん)されました。2000年には中国の「日本文物精華展」に、2004年にはドイツの「曙光(しょこう)の時代-日本の原始・古代展覧会」に、2009年にはイギリスの大英博物館の「土偶展」に展示され好評(こうひょう)でした。
 
  単鳳環頭太刀(たんほうかんとうたち)
写真:単鳳環頭太刀  時代/世紀
 じだい/せいき
 古墳時代中期/5世紀
 こふんじだいちゅうき/5せいき
 市町村(遺跡)名
 しちょうそん(いせき)めい
 山形市(大之越古墳)
 やまがたし(だいのこしこふん)
 種類
 しゅるい
 金属製品
 きんぞくせいひん
 大きさ
 おおきさ
 長さ95cm
 指定
 してい
 県指定有形文化財
 けんしていゆうけいぶんかざい
 ● 説明 ●
 古墳時代には、各地に権威(けんい)の象徴となる豪族(ごうぞく)たちのお墓がつくられるようになってきます。県内でも南陽市(なんようし)稲荷森古墳(いなりもりこふん)や山形市(やまがたし)菅沢(すげさわ)2号墳など著名な古墳が登場してきます。
 この大刀(たち)は、山形県の中心部、山形市大之越古墳(だいのこしこふん)から発見されています。古墳は西から山形市をのぞむ丘の上に存在します。古墳は径(けい)16mの円墳(えんぷん)と推定(すいてい)されています。箱式石棺(はこしきせっかん)が2基(き)発見され、それぞれ1号棺(ひつぎ)・2号棺と呼ばれています。この古墳からは、上の石棺(せきかん)(1号棺)からは環頭大刀(かんとうたち)などが、下の石棺(2号棺)からは馬具(ばぐ)である杏葉(ぎょうよう)、鉸具(かこ)などがみつかっています。石棺の構造(こうぞう)から5世紀末につくられたことがわかります。
 環頭大刀とは、刀の柄(え)の部分に飾(かざ)りがつく大刀のなかまで、この大刀には丸い環(わ)の中に鳳凰(ほうおう)がきざまれています。この青銅製(せいどうせい)の環頭に金箔(きんぱく)がほどこされており、全体の長さは94.8cmと大振(おおぶ)りです。環頭の飾りには、鳳凰があり、これには銀象嵌(ぎんぞうがん)があります。象嵌(ぞうがん)とは「象」(かたち)を「嵌」(はめる)という意味で、素材(そざい)にタガネなどの工具(こうぐ)で文様を刻み、その中に別の素材(銀など)をはめこむ技法(ぎほう)です。形や技法から朝鮮半島(ちょうせんはんとう)との関係がうかがえます。出土品は、山形県の有形文化財(ゆうけいぶんかざい)に指定されています。
 
  物忌札(ものいみふだ)
写真:物忌札  時代/世紀
 じだい/せいき
 平安時代/9世紀
 へいあんじだい/9せいき
 市町村(遺跡)名
 しちょうそん(いせき)めい
 酒田市(堂の前遺跡)
 さかたし(どうのまえいせき)
 種類
 しゅるい
 木製品
 もくせいひん
 大きさ
 おおきさ
 長さ52.2cm・幅3.3cm
 
 
 ● 説明 ●
 奈良・平安時代になると国家の基本となる律令(りつりょう)体制が確立し、各地に国府(こくふ)や国の寺[国分寺(こくぶんじ)・国分尼寺(こくぶんにじ)]ができてきます。山形県を含む出羽国(でわのくに)も例外(れいがい)なく置かれています。酒田市の北部には出羽国府(でわこくふ)跡と推定(すいてい)される城輪柵跡(きのわのさくあと)があります。その付近にも律令制下の出羽国を考える上で重要な遺跡が点在(てんざい)します。物忌札は木簡(もっかん)のなかまで、呪文(じゅもん)のようなものを書き儀式(ぎしき)に使われたものと思われます。この物忌札がみつかった堂の前遺跡も重要な遺跡で、見つかった遺構(いこう)などから出羽国分寺跡(でわこくぶんじあと)と推定されています。
 この物忌札は堂の前遺跡の発掘調査(はっくつちょうさ)によりみつけられました。溝(みぞ)跡から3点発見されています。その3点とも墨で、「山■(※参照)急々如律令」という呪文が書かれています。この「呪文」は「山■(※参照)」と「急々如律令」の2つの部分(ぶぶん)からなっています。最初にある「■(※参照)」は「尸」と「縄」を組み合わせた合わせ文字で、意味(いみ)や読(よ)みは不明です。後半の「急々如律令」は中国の漢(かん)の時代からの行政(ぎょうせい)文書(ぶんしょ)に使われた文句(もんく)で、「急いで律令のごとく」行うように命じたものでした。それが、日本に伝わる時に道教(どうきょう)の流(なが)れをくむ陰陽道(おんみょうどう)とむすびつき、朝廷(ちょうてい)儀礼(ぎれい)や魔除(まよ)けなどに盛んにつかわれました。いわば、「一切の魔を律令のごとく去(さ)っていくようにする呪文」といえます。

参照画像

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